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小野田寛郎さんの現在は?フィリピンのルバング島での生活もリサーチしました!

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歴史的人物

こんにちは。みっこりんです。

実業家でもあります終戦後30年間戦い続けた
小野田寛郎さんをフォーカスしていきたいと思います。

小野田寛郎さんの現在はどうされているのか?

またフィリピンのルバング島での生活は
どんな風に生活されていたのか

小野田寛郎さんについて調査していきたいと思います。

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小野田寛郎さんとは?

それではまず最初に小野田寛郎さんについて
まとめていきましょう。

小野田寛郎さんとは、太平洋戦争が終わったことも知らずに
フィリピンのルバング島で30年も戦い続けた日本人兵士

小野田寛郎さんのプロフィールは?

小野田寛郎さんのプロフィールをまとめていきましょう。

生年月日 1922年(大正11年)3月19日生まれ

瀬戸内海の入り口に位置する
和歌山県海草郡上川村という長閑な場所で育ちます。

小学校の教師から地元新聞を起こしてから
和歌山県議会議員をされていた父親種次郎さんと

街で初めての女教師をしていたタマエさんの間に
小野田家の4男二女の4男として生まれます。

小野田寛郎さんの子供時代は?

小野田寛郎さんの母タマエさんは

武家の娘として厳しい教育と女教師としてもプライドもあり
育児に並々ならぬ思いを持っていたそうですよ!

小野田家の息子たちをとても立派に育て上げることが
ご自分の役割だと強く思っていらしたんだそうです。

国のために命を捧げることが
最高の親孝行であることを息子たちに教えてきたのだそうですよ。

長男は、東京帝国大学(現在の東大)を経て陸軍軍医になり、次男も軍隊へ

厳しいしつけと兄たちのようには優秀にはなれないと言う劣等感を
抱き続けていた小野田寛郎少年は

中学卒業後、日本だけではなく
広い大陸に憧れを持つようになってきたのだそうですよ

小野田寛郎さんの若い頃は?

中学卒業後元々は語学は日本語のみの生活 外国語に触れる機会もありませんでした。

中国内陸部の漢口(かんこう)へと渡り17歳で貿易会社に就職

働きながら中国語を取得、そして
なんと英語も取得されて当時としては
珍しい3か国度を操っていた小野田寛郎さん

当時日中戦争は泥沼、ヨーロッパでは
第二次世界対戦も広がっていましたが

そんな中、17歳で貿易商社をに努め派手な生活を送っていました。

外車を乗り回しそして夜は豪華なダンスホールにいりびたり
タンゴを踊ってた一面もあったんだそうです。

日本の武士のような小野田寛郎さんからダンスは想像できませんわ~💦

20歳までの間だからと短い青春時代を堪能されていたそうです。

小野田寛郎さんの軍隊生活は?

しかし小野田寛郎さんの強さは、外国語の習得だけではなく
20歳で徴兵検査を受け入隊

一番下っ端として配属されますが
持ち前の語学力と国際感覚を持っていた小野田寛郎さんは当時珍しかったため、
特殊な任務を任されることとなります。

フィリピンのルバング島はどこなの?

それでは次に特殊な任務を任された小野田さんはフィリピンのルバング島へ向かいます。

フィリピンのルバング島とは?
マニラ湾の入り口についたてのようにある小さい離島
伊豆大島の2倍の広さ、人口は約2万人

観光客が来ることもない島だそうです。

生活は?

小野田寛郎さんが昭和19年1944年12月31日22歳で
フィリピンのルバング島へ到着

昭和20年2月28日アメリカ軍が上陸
激戦の末、日本側の200人もほぼ全滅と伝えられ終戦

小野田家の兄弟も無事に家に戻りますが、小野田寛郎さんだけは戻らなかった。

亡くなったかと思いきや、2年後証言からまだフィリピンのルバング島にいることがわかります。

フィリピンのルバング島でどんな生活をしていたかといえば
ゲリラ活動を続ける他

ヤシの木などを食材にしたり
野生の肉などを食料にしたり
とにかく自給自足の生活をされていたということです。

捜査は続けるもののご遺体は見つからないままは
昭和34年1959年小野田寛郎さんの葬儀が行われますが
実はまだこの時小野田寛郎さんは生きていらっしゃったんだのですね

そしてその後、ひろさんの頭には皇太子様がご成婚されたりしたニュースが入っても

小野田寛郎さんの気持ちは変わらず常に戦う意識を持っていらしたんだそうです。

小野田寛郎さんの今が特殊だったため
一人になっても戦うという面でがあったからこそ
小野田寛郎さんは終戦したことに気づかなかったというのも一理あるそうです。

閉ざされた環境に置かれて限られた情報しか
入ってこないのかでそうなってくると

何が正しいのかということが分からず情報を深読みし

それが増幅されることでそれに反するものを否定してしまうこともあったそうです。

そしてお母様からの早く出てきてという
母親の悲痛な叫びさえ言葉も伝えられて

早く出てきてという言葉にさえも

裏を読み、捕まるくらいなら自決しなさいと
ナイフを渡されたことを思い出し
そこまで言った母が出て来いというわけがないと思い

なかなか聞いてはいたもののその言葉を信じて
出てくることのなかった小野田寛郎さん

しかし、昭和48年捜査打ち切り

ある日とある男と出会います。

日本人、鈴木紀夫さんと出会いで小野田寛郎さんの人生は大きく変わります。

鈴木紀夫さんと出会います。
この方が写真を撮ったことで、小野田寛郎さんが発見

当時24歳だった鈴木紀夫さんは定職にも就かず旅をしていた旅をしていましたが
写真を撮らせたことで、ご家族が本人だとわかりまだ生きていることがわかりました。

帰国後はブラジルへ

日本に帰国した小野田寛郎さんですが
あまりにも日本が変わっていたためすぐにブラジルで農場を始めます。

なかなか、馴染めなかったのですね

10年間の間でブラジルでしっかりと農場始め
それまでの空白だった期間を必死で埋めようとしていきます。

現在は?

ブラジルで10年間過ごした後春から夏だけは日本へ帰国し
小野田寛郎自然塾を始め
子供たちに生きていく力を、一人では生きてはいけないことを
強さと優しさを持つことの意味を伝えていく活動をはじめます。

この小野田寛郎自然塾を始めることで子供達とふれあい、小野田寛郎さん自身も
ご自分を取り戻されて行かれます。

現在は、2014/01/16肺炎のため
東京都中央区の病院で死去91歳でした。最期は日本で過ごされたんですね

小野田寛郎さんまとめ

小野田寛郎さんの人生を拝見すると
日本人の戦う魂をずっと忘れずに持っていらしたのだと感じました。

小野田寛郎さんは、真の侍です。

戦うときの顔は鬼の形相であり、
子供たちといる時の小野田寛郎さんの笑顔は自然にあふれだす心からの笑顔ですね。

小野田寛郎さんの生きる強さをこれからの子供たちにも伝えていきたいです。

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