こんにちは!みっこりんです。
津田塾大学を創立した
津田梅子さんにフォーカスしていきたいと思います。
津田梅子さんと言えば若干6歳でアメリカに留学し
日本に帰るまでの最初の11年間つまり17歳になるまで
アメリカ留学を続けた日本人女性です。
その後も日本に戻ったりアメリカにも乗ったりと
生活していらっしゃいましたが、
今回は津田梅子さんの晩年について
また若い頃になぜ留学したのか、
帰国後の女子教育や英語力についても調査していきたいと思います。
津田梅子のプロフィールは?
それではまず最初に津田梅子さんのプロフィールをまとめていきましょう
津田梅子(つだうめこ)
生年月日1864年12月3日
東京都新宿区内に生まれる
父津田仙と母はつ
姉 琴(こと)
津田家の次女として梅子さんは生まれます。
若い頃になぜ留学した理由は?
それでは次に津田梅子さんが
なぜ若い頃に留学したのかと言いますと
これは津田梅子さんの父親津田仙さんの人生と大きく関わってきます。
アメリカのペリー提督率いる黒船が日本にやって来た時に、
その姿を見たのが当時16歳の津田梅子さんの父親だったわけです。
その時からアメリカという大国に憧れ、いずれは
西洋の学びを受けたいと思っていた父親は、
自力で外国語を取得し通訳としても活躍されます。
父親も通訳としての仕事を続けていきながら
西洋をよく見てきた黒田清隆氏と出会います。
黒田清隆氏は女性教育のひどさというものを強く感じ、
政府に意見を述べ女性をどうにかして育てていくために
女性の人材を育てようと決意されます。
そこに賛同した津田梅子さんの父親はまず最初に
姉の琴ちゃんに聞きますが、アメリカ留学は断られます。
しかし、次に梅子さんに聞いたところ本人が行くと決意したことで
梅子さんが若い頃に留学をする経緯となります。
一番の目的は、日本のため
日本の女性を育てる人材を育成するために、アメリカへと
若い頃留学した理由です。
アメリカ留学中は?
留学中の津田梅子さんはアメリカで素敵なホストファミリーと出会います。
ランメンご夫妻です!!!
ランメンご夫妻との出会いが津田梅子さんのアメリカ生活を支えたとも言っても良いでしょう。
ランメンご夫妻はお子様がいなかったので、
自分の子供のように梅子さんを可愛がり、
英語だけでなく様々な米国のマナーを教えてくれたそうで、
津田梅子さんの育ての親と言っても過言ではないですね。
それくらい、幼い頃の梅子さんを支えたのはランメンご夫妻でしょう。
その結果、ランメンご夫妻の影響により
梅子さんはキリスト教徒になり
本当のアメリカを知るためにはキリスト教徒になるのが一番だと悟ったからだそうで
ランメンご夫妻も様々な教育を施しました。
ランメンご夫妻のご自宅にはたくさんの本があり、
上級の学校に通い、それに加え
ラテン語、数学、物理学、天文学、フランス語など様々な学科を勉強しもともと
頭の良かった梅子さんは多くの学校で優秀な成績を収めました。
帰国後は?
11年間のアメリカ生活を終えた津田梅子さんが日本に帰ってきた時、
様々な戸惑いを感じます。
この戸惑いはもちろん日本で長年生活をしていなかったら、
普通の事だと思います。
長いアメリカ生活で英語を必死に学んだ結果、
日本語は得意ではなくなり
日本の生活にも慣れることは簡単ではなかったようです。
しかし、ひとつ救いだったのは、
アメリカ留学中に父親もキリスト教徒に変わっていたので、
2人で教会に行くことができるようになったり
聖書を読む機会があったというのも帰国後の梅子さんを支えるきっかけになったと思います。
帰国後の女性教育は?
帰国後日本に馴染めなかった梅子さんは大学を卒業するため、
再度アメリカへ渡ります。
この時、元々頭脳明快な梅子さんでしたが
さらに科学の研究に打ち込み研究に没頭されます。
大学では化学の研究を続けるようにと教授に言われた梅子さんですが、
日本に帰って女性を教育するために学校を作りたい夢を
しっかりと持っていらして、
女性の教育制度を構築しないといけない使命を持って
固い決意で帰国されます。
梅子さんが再度帰国したのは1892年8月
何の迷いもなくアジアの女性たちが真剣に将来を考え
自分の足で前に進めるように思っていました
1898年 梅子さんはアメリカのデンバーで開かれた
万国婦人連合大会に日本代表として出席。
思っていた女性教育についてもしっかりと伝えられます。
自分の手で女性のための学校を作るという固い決意を持っていらっしゃいました。
教育の大切さを知る出会い
梅子さんがどうしても女性教育をしたかった理由の一つに、
ヘレンケラーとの出会いがあります。
アメリカでお世話になったランメンご夫妻の働きかけにより
ヘレンケラーとお友達になります。
この時見えない話せない聞こえない中でも
しっかりと教育を受けたことにより、
自分で自立できるようになったヘレンケラーと出会い、
この時に教育の大切さを改めて知り、
梅子さん自身も女性教育者としてどんどん教育に目を向けて
一生懸命勉学に励む女性を増やしたいという気持ちがさらに強くなっていきます。
女性教育の始まりは?
津田梅子さんは帰国した翌年、女性のための学ぶ塾を作ります。
お金持ちのご婦人たちに寄付金の協力を呼びかけたり
沢山の協力者に資金調達で助けをもとめ、援助を受けたのだそう
この時助けてくれたのはアメリカからのお友達も多かったということです。
そしてアメリカで卒業した大学も、梅子さんの学校のために寄付金を
サポートしてくれるなど。
これまでの梅子さんの頑張りに共鳴した方にたくさん支えられました。
晩年は?
晩年の津田梅子さんは
喘息に苦しみ1年間お休みを取ってアメリカに休憩するなど体調が良くありませんでした
晩年の梅子さんにとって、心はアメリカにあったのかもしれませんね。
アメリカに帰ることでしっかりと休めたそうですが、
50歳を過ぎた頃から入院と退院を繰り返すようになり、
1929年8月16日64歳で梅子さんはなくなります。
梅子さんの晩年は、53歳ごろから体調を崩して入院をしたり、
体調が悪く塾長を辞任したり、また関東大震災で校舎が全焼してしまったり
晩年まで津田梅子さんの人生は、
波乱万丈で常にチャレンジ精神と戦っていらっしゃいました。
津田梅子さんまとめ
今回は津田塾大学を作られて新しく5000円札のお顔にもなる
津田梅子さんについてまとめてみました。
6歳でアメリカに一人で行かせるという決意を
ご両親がされたこともすごいと思いますし、
当時の政府から5人選抜されてアメリカに渡ったわけですが、
2人はすぐ体調が悪くなり帰国して、
残り3人で支え合いながら留学生活をされてきました。
言い切れない戸惑いや、
嬉しいことも悲しいこともたくさんあったと思います。
今振り返っていくと
津田梅子さんが成し遂げたことは
日本人女性のパイオニアではもちろんあるのですが、
津田梅子さんが持った性格が非常に前向きな方であり、
ハンディを持った人にでも心を開き
いろんな形の良いところを吸収していこうという気持ちがあったからこそ、
アメリカ人からも助けられる存在になったのだと思います。
そして、国交としても
日本とアメリカの歴史に津田梅子さん自身も苦しんだと思いますが
今ある姿を見て
6歳で若かった梅子さんがアメリカに行ったそのチャレンジ精神は、
多くの日本人女性にも伝わっていますね。
自分の子供だったらこんなに若く海外に行かせられるのかと思ったら、
できるのかわからないけれども、
何かをやりたいと子供に言われた時に、
子供のことを信じて応援できる親でありたいと改めて
津田梅子さんの人生を振り返り思いました。
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